櫟 本 小 学 校 沿 革 史 

 

       
絹煕舎跡 高登跡

 

崇文舎跡

 

 

 

文湖舎跡

絹煕舎跡

高登跡 崇文舎跡 文湖舎跡

 

           
   

 

  櫟本小学校は、明治5年6月1日、和爾下神社鳥居前の廃寺寂静院を学舎にして、 崇文舎という学校の創立が最初となる。明治7年の記録では、生徒数男63名、女 47名、合計110名、教員4名の規模であった。


明治21年に自治制がしかれ、22年には、現在の櫟本小学校区を村域とする櫟本 村が生まれた。大字森本、和爾にはそれぞれ分校をおくことになり、そこでは、尋常 1・2年生を教授し、3・4年生は、本校にて教授することになった。大字楢の1・2年生は、和爾分校に通学した。明治25年の3月には、和爾・森本の2分校を廃し て本校に併せ、4月からは、名実共に櫟本尋常小学校となり、戦時中の昭和16年の櫟本国民学校に改称されるまで続いた。


戦後、昭和22年4月、学校教育法による新学制が発足し、6・3・3・4制の最初の6ケ年間は櫟本小学校が担うことになった。


昭和29年4月1日、6町村が合併して天理市となるや、北部の中心校として、天理市立櫟本小学校と校名を改めた。昭和33年には校舎が改築され、その跡地には学習園が設けられ、校区全域から樹木の寄贈を得て、素晴らしい学習園が完成した。その成果が認められ、昭和36年11月には、環境緑化全国コンクール小学校の部に入選し、表彰された。また、昭和38年には、子ども銀行が大蔵大臣より表彰された。 現在もその面影は残っている。

  こうした、歴史 と伝統とともに、平成23年7月、ついに新体育館が完成した。そして、平成24年11月には創立140周年記念式典を盛大に挙行することができた。

 地域、関係者の皆様のこれまでのご尽力に感謝したい。

 学校の伝統ある歴史を振り返り、ふるさとを愛し、未来にはばたく児童の育成をめざして、益々教育への情熱が集まる櫟本小学校である。

 

     

 

   学校の沿革

1872(明5)  明治5年6月1日創立。寂静院にて開校。崇文舎と称する。
1873(明6)  楢村の高登舎と合併。櫟本小学校と改称。
1884(17)  米谷、高樋、北椿尾、森本各小学校の本校となる。
1887(20)  櫟本尋常小学校と改称。
1893(26)  櫟本尋常高等小学校と改称。
1921(10)  奈良県櫟本実業女学校を併置。
1941(16)  櫟本国民学校と改称。
1947(22)  学制改革により、櫟本小学校と改称。
1954(29)  市制施行により、天理市立櫟本小学校と改称。
1962(37)  学校給食開始。
1966(41)  プール竣工。
1972(47)  鉄筋コンクリート造り3階建6教室完成。
1973(48)  屋内運動場完成。
1974(49)  創立100周年記念事業を行う。
1977(52)  鉄筋コンクリート造り3階建増築完成。
1986(61)  鉄筋コンクリート造り4階建教室増築落成。
1991(平3)  体育館の改修。

1992(平4)

 創立120周年記念事業を行う。

2001(13)  コンピューター室完成。
2002(14)  創立130周年記念事業を行う。
2004(16)  運動場東側に防球ネット設置。
2011(23)  新体育館完成。竣工式を行う。
2012(24)  運動場拡張整備工事。
2012(24)  創立140周年記念事業を行う